【風まかせ(16)前半】糺の森にひそむ三柱鳥居の謎


鴨脚と書いてイチョウと訓む。

その家名の謂れは第12代景行天皇がこの地に逗留した際に詠まれた鴨一族繁栄を言祝ぐ歌に因むのだという。そんなやんごとなき鴨脚家は京都の下鴨に広がる糺の森の南端にある。

s_1・左の賀茂川と右の高野川に挟まれた糺の森
左の賀茂川と右の高野川に挟まれた糺の森

その庭に不思議な伝承をもつ深さ4mほどの組石造りのすり鉢状の泉がある。「庭の池の水は鴨川の水と御所の井戸につながっている」との言伝えを裏づけるかのように池の水位は鴨川や御所にある百余の井戸の水位とほぼ同じになるというのである。 その興味深い話は螺旋状に敷石を下る池の構造とともに数年前、NHKスペシャルで放映された。

鴨脚家は代々、下鴨神社の神官を努めてきた。 同時に朝廷において神事用の水や井戸水などを管理する主水部でもあった。“もひ”とは古語で飲み水を意味する。科学技術の未発達な時代、飲料水の確保はいうにおよばずその衛生管理は今とは較べようのない重要な政治の役割であった。その専門知識を有する鴨族が跋扈する地が賀茂川と高野川が合流する中州に広がる糺の森であった。清らかな伏流水を豊かに湧出する水の供給基地であり、都の民の命をつなぐ水の聖地であった。

s_2・木嶋坐天照御魂神社の三柱鳥居 のコピー
木嶋坐天照御魂神社の三柱鳥居

その糺の森から南西に8kmほど離れた太秦の地に木嶋坐天照御魂神社(以下、木嶋神社)の社叢で元糺の森と呼ばれる森がある。木嶋神社の由緒書きは、元始、身を清め糺す禊の場所が木嶋神社の地にあったので、元糺の森と称すのだと記す。聖なる禊の地が嵯峨天皇の御代、訳は申さぬが木嶋神社から下鴨神社へと遷されたといっているのである。
そこで、細かいことが気になる筆者はその背景を薬子の乱に象徴される嵯峨天皇と先代の平城天皇との熾烈な権力闘争のなかに求めたのである。太秦一帯を支配する秦氏と賀茂川の中州を支配する鴨氏との間に、今では考えられぬが朝廷に対して強大な力を誇示できる水の管理権をめぐる抗争があったと。

木嶋神社本殿の左手窪地に元糺の池と呼ばれる池がある。この池は階段状に連なる三つの池からなり、各々に堰が設けられ水が溜まるように造られている。そして、一番下の池の堰からは細流となって流れ出ていく構造となっている。この地が大昔、豊富な水に恵まれた禊の地であったことは、今に伝わる夏の土 用丑の日に池に手足を浸す厄除け神事の存在がそれを雄弁に語っている。近年、宅地造成や地下鉄開通により水脈が途絶し涸れ池となっているが、神事の折には地下水を汲みあげて池を満たし伝統を繋いでいるという。

禊の儀式が変じたその厄除け神事は下鴨神社においても同時期、同様式で催行されている。こちらは “みたらし祭り”、別名“足つけ神事”としてテレビなどでよく目にする有名な京の夏の風物詩となっている。

s_3・木嶋神社の元糺の池を上から下の水溜りを見る
木嶋神社の元糺の池を上から下の水溜りを見る

新旧糺の森に同様の神事が伝わり、“糺す”という禊ぎの文字を有す地が水の聖地であったことは確かである。その元糺の池に石造りの三柱鳥居が建っている。三本の柱が正三角形を作るよう に立ち、上部に三本の笠木を渡した風変わりな鳥居である。三柱で囲まれた中心には円錐状に石が積まれ、頂に御幣が飾られている。平安の頃、そこから湧き出 た水はその量によって段々に下の池へと流れ出し、元糺の森を出るころには川となって都中を潤していた。

後半へつづく(Coming Soon!)

金刀比羅宮本殿前にて
野田博明(のだ・ひろあき)
昭和26 年生まれ。東大卒。日本興業銀行広報部長などを経て、現在、一般社団法人全日本社寺観光連盟理事。平成27 年文化庁・官公庁共管の「文化財の英語解説のあり方に関する有識者会議」、平成29 年文化庁の「文化財の多言語解説等による国際発信力強化の方策に関する有識者会議」の委員。

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2017-11-03 | Category コラム

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