【インタビュー】文化財を通じて家康公の業績を伝える 落合偉洲(久能山東照宮 宮司)


〈巻頭インタビュー〉

文化財を通じて家康公の業績を伝え
「平和の神」としてのご神徳を広めていきたい

久能山東照宮 宮司 落合 偉洲

久能山東照宮は徳川家康公埋葬の地であり、全国東照宮の創祀としての由緒を誇っている。2010(平成22)年、権現造の社殿が国宝に指定されたのを機に、参拝者が急増。一方では、クラウドファンディングの手法を活用した文化財修復プロジェクトを展開し、全国的な注目を集めている。次々に新機軸を打ち出し、神社界に新風を吹き込んでいる落おちあい合偉ひでくに洲宮司に、寺社観光の可能性についてお話を伺った。

インタビュー01

プロフィール
落合 偉洲( おちあい ひでくに) 久能山東照宮宮司、久能山東照宮博物館館長、全日 本社寺観光連盟理事。 1947(昭和22)年、宮崎県生まれ。カソリック系の日向学院から國學院大學、國學院大學大学院を経て神 社本庁で総務部長、渉外部長などを歴任。2002(平 成14)年3月から現職。2013(平成25)年7月には、博 物館所蔵「家康公の洋時計」の歴史的な背景から大 英博物館の調査までを『家康公の時計 四百年を越えた奇跡』(平凡社)としてまとめて上梓。全国国宝重要 文化財所有者連盟理事長も務めている。

編集部  久能山東照宮は、全国東照宮の創祀として比類のない由緒を誇っています。その歴史と魅力についてお聞かせください。

落合宮司  徳川家康公は1616(元和2)年4月17日、駿府城で亡くなりました。その2週間ほど前、家臣を集めてこんな遺言を残しています。自分の死後、「遺体は駿河国の久能山に西向きに埋葬し、江戸の増上寺で葬儀を行い、三河国の大だ いじゅじ樹寺に位牌を納めてほしい。そして、1周忌を過ぎたら、下し もつけ野の日光山に小堂を建てて神として祀ってほしい。そうすれば、自分は関八州の鎮守となろう」その遺言を聞いた2代将軍秀忠公は、当時、久能城があった久能山に家康公の墓を作り、久能城を撤去して神社を作るよう命じます。こうして、日光より先に久能山に東照宮が作られ、翌年、家康公の神み たま霊を久能山から日光に分霊する形で、日光東照宮が創建されたのです。

 

家康公のご尊体が埋葬されたかけがえのない聖地

編集部  日光東照宮の創建にともない、家康公のご遺骸も久能山から日光に改葬された、という説もあるようですね

落合宮司  過去の記録の中には、久能山から日光へ「神柩(しんきゅう)」を移した、あるいは「ご
遺骸を1年後に日光に移した」と書かれたものもあります。ただ、どう考えても、それには無理があるように思います。家康公は遺言の中で、「自分の遺骸を西向きに埋葬してほしい」と語っています。もし西方にいる豊臣の残党が謀反を起こしたら、平和は失われ、再び世は乱れてしまう。それを防ぐためにも、自分はこの久能山から西方に睨みを利かせよう。そして、1年経って何も起こらなければ、私の魂を日光に神として祀ってほしい…と。その遺志に背いて日光に改葬するというのは、ちょっと考えにくいのではないか。今、久能山にある家康公の墓は、1640(寛永17)年、幕府によって作られたものです。当初、家康公の墓は木造だったのですが、幕府はその木造墓を撤去して、高さ5.5mもある立派な石造の墓を新たに建立しました。もし1617(元和3)年にご遺骸が日光に移されたのなら、わざわざ莫大な資金を投入して墓を作り直す必要などなかったはずです。

編集部  つまり、久能山から日光に移されたのは、ご遺骸ではなく神霊だった。「神柩を移した」という表現が混乱を招いた、ということですね。

落合宮司  天海僧正は徳川政権にブレーンとして入り込み、自分と関わりの深い日光の輪王寺を盛り立てるべく、輪王寺の境内に家康公を神として祀る計画を立て、家康公を説得します。そして、家康公の死の1年後、その神霊を久能山から日光へとお移しした。その後、「天海が家康公の墓を掘り返して、ご遺骸を日光に移した」という話が、尾ひれを付けて広がっていきます。おそらく天海さんは、できることなら墓自体を日光に移したかったのでしょう。とはいえ家康公の遺言がありますから、おいそれと移すわけにはいかない。そこで、いろいろ考えた末に、「神柩」という表現を使ったのではないか。この時、「久能より日光へご尊体遷座のときに、慈眼大師天海僧正が遺した歌」として、こんな歌が遺っています。「あればある なければなしと するがなるくのなき神の宮遷しかな」下の句では駿河と久能とをかけて、「するが(駿河)なる くの(久能)なき神の宮遷しかな」と詠み、上の句は、「家康公のご遺体が久能山にあるといえばある、(日光に移ったので)ないといえばない」と詠んでいるようにもとれる。私は、この歌の意味をずっと考え続けてきたのですが、ある時、平仮名で書かれた「く」の意味に思い至ったのです。この句の前に、「ご尊体遷座」という言葉がありますよね。ご尊体とは家康公の体のことですから、「く」を「軀」と考えると意味が通じるわけです。「軀」とは仏像や神像を数えるときの助数詞で、これを平仮名で「く」と書いたところに、天海の非常な苦心があった。つまり、「軀のなき神」とは「ご尊体のない神」のことであって、ご尊体=「軀」が久能山にあるからこそ、「軀のなき神の宮遷しかな」と天海は詠んだのではないか。「家康公のご遺体が、神柩の中にあると言えばあるし、ないと言えばない。ご尊体なき宮遷しかな」それが、この歌の意味するところだと私は考えています。
編集部  久能山東照宮は、家康公のご尊体が埋葬されたかけがえのない聖地だということですね。加えて、国宝に指定された社殿建築の美しさも、久能山東照宮の大きな魅力の一つです

落合偉洲宮司の筆による「東照宮遺訓」

落合偉洲宮司の筆による「東照宮遺訓」

落合宮司  1888(明治21)年に、日光東照宮と久能山東照宮と輪王寺が一括して古社寺保存法の「特別保護建造物」(国宝)に指定されたのですが、1950(昭和25)年の文化財保護法施行で旧国宝がいったん全て「重要文化財」となり、あらためて国宝・重文の指定が行われることになりました。以来、久能山はずっと重文で来たわけですけれども、2002(平成14)年~2009(平成21)年の社殿改修工事で漆をはがしてみたところ、創建当時の部材がほぼそのまま残っていることがわかったのです。それに、当社の社殿を造営したのは大工の中井大和守正清ですが、正清が手がけた建築物の大半は、国宝や世界遺産になっている。その正清が最晩年に心血を注いで造ったのが久能山東照宮ですから、その辺の事情も考慮されたのでしょう。名工・中井正清の作であることに加えて、修理中に原材料がほぼそのまま残っていることがわかったため、文化庁も当社に対する評価を変えざるをえなかったのではないか。しかも、当社は最古の東照宮建築であり、家康公を祀る「権現造」の原点でもあります。これらのさまざまな理由から当社の存在が認められたことが、国宝指定につながったのではないかと考えています。国宝指定を受けたのは、2010(平成22)年12月24日。国宝になることが決まったというニュース報じられると、その翌日から参拝者が急増しました。翌2011(平成23)年は震災の年でしたが、参拝者は前年に比べて10万人も増え、38万人の参拝者が久能山を訪れています

 

7時間で500万円の募金を集めた「刀剣修復プロジェクト」

インタビュー03

“刀剣女子”と呼ばれる若い女性を中心に支持を集め、7時間で500万円もの募金が集まった「刀剣修復プロジェクト」のポスターパネル

編集部  久能山東照宮では文化財の修復資金を調達するため、クラウドファンディングの手法を積極的に活用しておられます。その第1弾として、重文・徳川家康公の甲冑「白檀塗具足(びゃくだんぬりぐそく)」を修復されたそうですね。

落合宮司  当社の博物館には2200点の宝物がありますが、鎧63両のうち20両は、鎧の糸が切れて部品だけが遺っているような状態です。そこで、「徳川家歴代15代将軍 夢のそろい踏みプロジェクト」を立ち上げ、その第1弾として家康公の鎧修復費用の支援を募ったところ、1年間で600万円以上の支援金が集まりました。その第2弾を立ち上げようとしていた矢先に、たまたま、蔵の中から錆びた刀が8本出てきたのです。詳しい由緒はわかりませんが、家康公に奉納されたこと自体に意味があるわけですから、この刀を文化財として後世に伝えていきたい。そこで、PARCOの協賛を得て「刀剣修復プロジェクト」を立ち上げました。『刀剣乱舞-ONLINE -』というゲームの制作会社ニトロプラスからも「ぜひ協力したい」とのお話があり、家康公の剣「ソハヤノツルキ」を擬人化したゲームのキャラクターを作っていただきました。昨年12月5日に記者会見を開いて協力を呼びかけたところ、その映像が拡散され、その場でどんどんお金が入ってきました。このプロジェクトは、“刀剣女子”と呼ばれる若い女性を中心に支持を集め、なんと7時間で500万円もの募金が集まったのです。当社の文化財修復プロジェクトを支えて下さっているのは、ほとんどが個人の方ですね。募金の返礼品として、オリジナルTシャツやクリアファイル、記念酒などを贈呈させていただいております。いわば「ふるさと納税」のようなものですね。やはり、博物館の拝観料だけでは、十分な修復費用を賄うことは難しい。当社では76種類191点が徳川家康関係資料として一括重文指定を受けていますが、こうした文化財を通じて家康公の生前の業績をPRし、ご神徳を広めていくことはとても重要です。文化財としての価値を保持するためにも、さまざまな手法を活用しながら、修復資金を集めていきたいと考えています。

 

家康公の業績を今に伝えるスペイン国王からの贈り物

インタビュー-時計

「家康公の洋時計」。スペインの船サン・フランシスコ号救助の返礼としてスペイン国王から家康公へ贈られた、名工ハンス・デ・エバロが1581(天正9)年に製作した時計

編集部  観光立国を目指す日本において、久能山東照宮はどのような役割を果たしていきたいとお考えですか。

落合宮司  当社としては、生前の家康公が、泰平の世を作るためいかに努力されたかということを、世界の人々に知っていただきたい。その象徴ともいえるのが、スペイン国王から家康公に贈られた時計です。1609(慶長14)年、スペインの船サン・フランシスコ号が、暴風雨のため千葉県の御おんじゅく宿に漂着しました。乗組員373名のうち317名を村民が救助し、家康公は三浦按針に命じて西洋式帆船を造らせ、乗組員をメキシコまで送り届けさせたのです。その返礼としてスペイン国王から贈られたのが、名工ハンス・デ・エバロが1581(天正9)年に製作したこの時計です。財宝を積んだ船が難破すれば、乗組員が皆殺しにされてもおかしくない時代に、外国人の遭難者を助けて本国に送り届けた。この時計は、いわば家康公の平和外交の賜物であり、歴史的に見ても大変価値の高いものです2012(平成24)年、大英博物館の専門家デービッド・トンプソンさんにこの時計を調査してもらったのですが「この時計には16世紀からのオリジナル部品が99%残っている。大変貴重なものであり、世界でも類例がない」とのことでした。昨年来日されたスペイン国王フェリペ6世も、この時計をご覧になるために、わざわざ静岡まで足を運んでくださったのです。久能山に来られたら、ぜひ博物館にも立ち寄っていただきたい。収蔵品を通じて家康公の業績を偲び、平和の神としての家康公のご神徳に触れていただければと思います。

編集部  落合宮司は、全日本社寺観光連盟の理事としても活躍されています。社寺観光の可能性についてお考えをお聞かせください。落合宮司 観光の「光」とは神仏から注がれる「光」であり、この光を求めて人々は神社やお寺に足を運ぶのでしょう。そして、観光の「観」とは、人々が神仏と対峙しながら、心の目で光を「観る」ということ。つまり、「観光」とは「心の目で神仏の光を観る」ことだと私は考えています。心の目を研ぎ澄まして神仏からのメッセージをしっかり受け止め、自分の生き方の栄養にしていただきたい。そのためにも、ぜひ神社仏閣に足を運んでいただきたいと思います。

 

インタビュー05

久能山東照宮
〒422-8011
静岡県静岡市駿河区根古屋390
TEL:054-237-2438
https://www.toshogu.or.jp/

2018-03-16 | Category インタビュー

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