【風まかせ(17)後半】瀬をはやみ岩にせかるる滝川の われても末にあはむとぞおもふ


前半からつづく

金刀比羅宮・社殿

金刀比羅宮・社殿

皇を民の地位に貶めると皇統断絶を呪詛した崇徳院の凄烈な怨念は、わが国の三大怨霊の筆頭として魔界を統べる巨魁となった。爾後、歴代皇室はその祟りを怖れ、事あるごとに御霊の鎮撫に意を尽くしていく。白峰山中腹に築かれた御陵の隣地にある四国霊場札所の白峯寺境内に鼓岡から木の丸殿を移築し、崇徳院の御廟・頓証寺殿を造営したのもそのひとつである。讃岐の金刀比羅宮も元々の祭神は大物主命であったが、崇徳院の没後、早々に御霊を合祀した。そして、後白河上皇につづく二条、六条、高倉、安徳の歴代天皇が27年という短い間に次々と崩御する。しかもそのなかで最も長命であった二条天皇ですら23歳の夭逝とその戦慄すべき事実は、時の後鳥羽天皇を恐慌状態に陥らせ、金刀比羅宮へ即座の勅使派遣となったのである。また、藤の花を殊のほか愛された崇徳院が通った藤寺という一堂が京都東山にあった。寵愛をうけた阿波内侍がご遺影を境内の観音堂に祀り菩提を弔ったとされる。その御堂に一法師が籠った際、院の姿が現れ出たとの奇妙な話が伝わるや後白河院は恐れをなし、その地に新たな寺を建立し崇徳院を祀ったという。それが安井金刀比羅宮の起こりだと由緒は語る。そのすぐ近くの祇園・甲部歌舞練場に隣接して小さな御廟がある。阿波内侍が院のご遺髪を請い受け、崇徳天皇御廟を建てたものである。内侍の可憐な心根が伝わる話である。ところが保元物語には乱の後に崇徳院が阿波内侍の館に逃げ込もうとするも門は閉ざされ音もせず、やむを得ずほかの女官のもとへ向かったとの話が描かれている。そんなつれない女の裏話を知ってか知らでか、現代の安井金毘羅宮は悪縁を切り良縁を結ぶ霊験あらたかな神社として若い女性に大人気で殷賑を極めているのだから、本当に女は怖い生き物だと純真な男どもは首をすくめるしかない。

阿波内侍と崇徳院所縁の京都の安井金毘羅宮

阿波内侍と崇徳院所縁の京都の安井金毘羅宮

また同じ京都では、1868(明治元)年に明治天皇が白峰御陵から崇徳院の御霊を還幸し、上京区飛鳥井の地に白峯神宮を建立した。700年の時を隔てての帰京であった。この神社は崇徳院のほか淳仁天皇をご祭神としているが、蹴鞠の家元である飛鳥井家の旧地とあって現代ではサッカーなど球技の神様として参拝する若者たちで賑わっている。

祇園の甲部歌舞練場の裏にある崇徳天皇御廟

祇園の甲部歌舞練場の裏にある崇徳天皇御廟

崇徳院と淳仁天皇を祀る京都の白峯神宮

崇徳院と淳仁天皇を祀る京都の白峯神宮

そんな崇徳院であるが、上皇時代に勅撰和歌集・“詞花和歌集”を編纂させるなど第一級の文化人でもあった。冒頭の“瀬をはやみ”は小倉百人一首の77番目の歌として知られている。編者である藤原定家はそのひとつ前、76番に法性寺入道前関白太政大臣の歌を配している。この入道こそ保元の乱で後白河天皇側についた、時の関白・藤原忠通である。その句は崇徳院がまだ天皇在位のころ催した内裏歌合せで海上遠望という兼題で詠まれたものである。“和田の原こぎ出でてみれば久堅の雲居にまがふ奥津白波” おおらかで気持ちのよい歌である。よもや20年後に眼前に坐る柔和な表情の治天の君を配流の刑に科し、狂い死にさせ、皇室に仇なす怨霊の巨魁に変化させるなどとは思いもつかぬことであったに違いない。さらに定家は78番目に源兼昌の歌を置いた。江戸時代の百人一首の名注釈書・「百人一首一夕話」はこの兼昌を「その行状詳らかならず」と生没年も覚束ない人物であると記す。そんな歌人を怨霊と化した崇徳院の次の歌として採っている。その発句は“淡路島”。なぜ、定家は保元の乱で敵対した関白忠通、崇徳院の次に、ほぼ無名ともいえる人物の歌をもってきたのか。それは次号の“百人一首に隠された暗号”にてなぞ解きをすることとしたい。

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野田博明(のだ・ひろあき)
昭和26 年生まれ。東大卒。日本興業銀行広報部長などを経て、現在、一般社団法人全日本社寺観光連盟理事。平成27年文化庁・観光庁共管の「文化財の英語解説のあり方に関する有識者会議」、平成29年文化庁の「文化財の多言語解説等による国際発信力強化の
方策に関する有識者会議」の委員。

2018-03-14 | Category コラム

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