【風まかせ(18)】百人一首は暗号の万華鏡


桂川にかかる渡月橋越しに見る小倉山

桂川にかかる渡月橋越しに見る小倉山

藤原定家は日記、『明月記』に「嵯峨中院障子色紙形、ことさらに予書くべきの由、かの入道懇切なり」と小倉百人一首を撰じた動機、形式を書き記している。入道とは宇都宮頼綱のことで北条時政の娘を妻とする鎌倉幕府の豪富・有力な御家人であったが、出家後に豪壮な別荘を嵯峨中院に構え歌道にいそしむなど悠々自適の生活を送っていた。

小倉山山すそに建つ二尊院

小倉山山すそに建つ二尊院

摂関家に家司として仕える下級貴族の定家は頼綱の娘を長男・為家の嫁として迎え、勃興する武家政権の世に確かな地歩を築く。その頼綱が別荘の障子に歌仙百人の似せ絵と歌を書いて欲しいと定家に依頼したものが、後世、小倉色紙と呼ばれ、巷間に歌留多として広まる小倉百人一首である。小倉山の麓に建つ時雨亭で定家は撰考に努めたとされるが、現在、それに比定される史跡が嵯峨野の二尊院と常寂光寺に残されている。

定家が百人一首を編纂した時雨亭のあったと伝わる常寂光寺・仁王門

定家が百人一首を編纂した時雨亭のあったと伝わる常寂光寺・仁王門

『明月記』はさらに、「古来の人の歌各一首、天智天皇より以来、家隆、雅経に及ぶ」と撰歌の範囲を仄めかす。そのためか、後世の和歌の研究者やミステリーファンまでが百人を撰んだ基準は何か、なぜこの一首でこの配列なのか、99番、100番の後鳥羽院・順徳天皇は端から入っていたのか等々これまで百人一首の謎に迫るべくさまざまな書籍が上梓されている。

源融・藤原道長の別荘であった王朝文化絶頂期の宇治平等院

源融・藤原道長の別荘であった王朝文化絶頂期の宇治平等院

かの白洲正子女史も『私の百人一首』で“二つの歌を一組にするのが歌合せの伝統”、“定家は漫然といい歌をえらんだのではない、各々の人間関係とそれにまつわる逸話や伝説、宮廷における立場といったようなことまで細かく心を用いている”と論評する。が、和歌の世界に造詣もない筆者に定家の潜み声が届いたのだから、世の中そう捨てたものではない。怨霊と化した崇徳院の“瀬をはやみ”を詠じ、次なる78番の“淡路島かよふ千鳥の”に目を転じたときである。百人一首の中では一応人気のある札らしいが、江戸時代の注釈書『百人一首一夕話』は作者の源兼昌の行状詳らかならず、定家が本歌取りした元歌だから採ったのだろうと取りつく島もないほど素っ気ない。なぜこの一首を保元の乱で敵味方となった関白・藤原忠通(76番)、崇徳院の次においたのか。歌合せの形式であれば崇徳院・兼昌の組合せで一組である。この二首に隠された共通項は何かと目を凝らしたとき、“淡路島”の発句が飛び込んできた。淡路廃帝、8世紀に起きた藤原仲麻呂の乱で淡路国へ流罪となり同地で暗殺されたとも伝わる淳仁天皇、怨霊となった天皇である。
浅学にして廃帝に秀歌が在るか否かは知らぬが、在ったとしたら直截にそれを収載しただろうか。妖艶、有心を窮めんとした定家がそんな露骨なことをするはずがない。淡路島を暗喩として使ったのではないか、かつて本歌取りした淡路の歌をそっと崇徳院に組合せたのだろうと子供じみた好奇心で百人一首を読み返すと定家の埋め込んだ暗号が万華鏡のようにいくつも現れ出てきた。『明月記』に仄めかした「家隆、雅経に及ぶ」がその一つである。定家は自身の“来ぬ人を”身を焦がしつつ待つ恋歌を97番目に置く。次に“風そよぐならの小川の夕暮れは御禊ぞ夏のしるしなりけり”と、上賀茂神社の夏越の祓の情景を詠う藤原家隆を配した。能の “定家”が描く忍ぶ恋の相手、式子内親王への永久の恋。賀茂のなら川で御禊し賀茂神社の斎院となった内親王への焦がれるような想い、斎宮を退き隠棲の日々をおくる女人との禁断の恋を歌の世界を超え認め合う盟友の歌に重ねたに違いない。

式子内親王の墓 鎌倉時代の石仏と五輪塔

式子内親王の墓 鎌倉時代の石仏と五輪塔

やはり「家隆に及ぶ」と、当初は家隆の一首が最後を飾っていた、そして、巷間いわれるように鎌倉幕府に遠慮して承久の乱の首謀者である後鳥羽・順徳帝は採択せず、藤原長方など別の歌が入っていたのかもしれない。内親王の“玉の緒よ絶えなば絶えね長らへば 忍ぶることのよはりもぞする”。二人の忍ぶ恋は百人一首の世界で今も絶え入るかのようにひそやかに息づいている。般舟院御陵の脇にある内親王のお墓は妄執の定家葛に纏わりつかれているかと思いきや、小さな塚の上に神寂びた石仏たちに囲まれ楚々と瀟洒な佇まいをみせていた。さて、「天智天皇より以来」と1番に天智天皇を配した定家の意図は何か。天智天皇は大化の改新で、今は乙巳の変というらしいが、中臣鎌足と談合して蘇我氏から王権を奪還、大功をなした鎌足に藤原の姓を授けた。つまり、藤原家の末枝に連なる下級貴族とはいえ、定家の属する貴族社会で藤原氏の栄華の礎を築かせた大恩ある天皇である。また、天武天皇の皇后、持統天皇も娘として天智の皇統を伝えていこうとした王である。後に、天武天皇の孫である淳仁天皇と孝謙上皇の確執のなかで起きた仲麻呂の乱が光仁天皇という天智皇統への大転換を惹起する。勃興期の藤原氏が結果として皇統転換に大きな役割を果たしたこととなった。
そして、陽成院、河原の大臣と呼ばれた源融、光孝天皇の13番から続く三人である。時の摂政・藤原基経は陽成天皇を廃位に追い込み、皇嗣争いに自薦をしてきた嵯峨天皇の皇子・源融も排斥し、我が意に沿う光孝天皇を55歳という高齢で即位させた。藤原氏が外戚としての地位を盤石にさせてゆく駒となった天皇たちである。ここで皇統は嫡流から傍流の光孝天皇へと移り二度と直系へ戻ることはなく、今上天皇へとつながっていく。

歌合せが催された京都御所 承明門から紫宸殿

歌合せが催された京都御所 承明門から紫宸殿

次が68番の三条院である。“この世をばわが世とぞ思う”摂関政治絶頂期の道長の時代である。娘の中宮・彰子の皇子を即位させるため眼病に苦しむ三条天皇をいびりぬき、終に譲位させる。わずか8歳の後一条天皇の誕生である。三条院の“心にもあらで憂世にながらへば 恋しかるべき夜半の月かな”。あまりに厭世的、絶唱とも聴こえる貴族政治の爛熟、腐敗の臭いを感じさせる歌である。
最後に後鳥羽院と順徳天皇である。各々、隠岐の島と佐渡島に配流され、同地で生涯を閉じられた。後鳥羽院が自ら朱の御手印を押した宸翰に綴った「この世の妄念により魔物となれば災いをなし」と、崇徳院を髣髴とさせる背筋も凍る絶筆が残されている。

定家の墓のある嵯峨野厭離庵の紅葉が盛り

定家の墓のある嵯峨野厭離庵の紅葉が盛り

次が68番の三条院である。“この世をばわが世とぞ思う”摂関政治絶頂期の道長の時代である。娘の中宮・彰子の皇子を即位させるため眼病に苦しむ三条天皇をいびりぬき、終に譲位させる。わずか8歳の後一条天皇の誕生である。三条院の“心にもあらで憂世にながらへば 恋しかるべき夜半の月かな”。あまりに厭世的、絶唱とも聴こえる貴族政治の爛熟、腐敗の臭いを感じさせる歌である。
最後に後鳥羽院と順徳天皇である。各々、隠岐の島と佐渡島に配流され、同地で生涯を閉じられた。後鳥羽院が自ら朱の御手印を押した宸翰に綴った「この世の妄念により魔物となれば災いをなし」と、崇徳院を髣髴とさせる背筋も凍る絶筆が残されている。

順徳天皇を祀る佐渡島の真野宮

順徳天皇を祀る佐渡島の真野宮

最後になったが、定家の死から六百余年を経た1868(明治元)年、明治天皇は藤原雅経を家祖とする飛鳥井家の邸宅跡に白峯神宮を創建した。祭神は崇徳院と淡路廃帝である。「雅経に及ぶ」と語った定家もまさかそんな話になるとは厭離庵の墓の下で苦笑い、いや、定家のことだからそんなこと当然見越して言ったのさと嘯いているのかもしれない。

野田博明(のだ・ひろあき)
昭和26 年生まれ。東大卒。日本興業銀行広報部長などを経て、現在、一般社団法人全日本社寺観光連盟理事。平成27年文化庁・観光庁共管の「文化財の英語解説のあり方に関する有識者会議」、平成29年文化庁の「文化財の多言語解説等による国際発信力強化の
方策に関する有識者会議」の委員。

2018-03-16 | Category コラム

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