【風まかせ(19)】八幡太郎も 遠くなりにけり。


アッポーペン”のピコ太郎は知っていても、八幡太郎を知る若い人はもう稀である。八幡太郎こと源義家は天下第一武勇之士、武門の棟梁といった多くの美称をもつ平安時代の武将である。とくに前九年の役では、弱冠十八歳の若武者として父頼義とともに出陣、陸奥国の豪族安倍頼時、貞さだとう任・宗むねとう任父子を討伐。義家の奮戦の姿を『陸奥話記』は稲妻のように馬を駈け弓射る姿はまさに神のようで、敵の貞任勢も八幡太郎と褒め称えたと描き出している。また、敗走する貞任を追う義家が“衣のたてはほころびにけり”と声をかけるや“年をへし糸のみだれのくるしさに”と上の句を返した貞任に矢を放つのをやめたという風雅な話もこの戦いでのことである。奥州藤原氏の誕生を促した後三年の役では朝廷の恩賞が下賜されず、寄騎した将兵たちに義家が私財をもって報いたことで関東武士の信望を一挙に集め、後の頼朝による鎌倉幕府開府の礎を築いた。八幡太郎が武勇に長けた武将だけでなく、勅撰和歌集に和歌が採首されるほどの教養も具えた一流の文化人であったことが、尾ひれもついた多様な逸話が『古事談』など説話集でひろく流布されていくことになる。

そんな武士の鑑、八幡太郎は河内源氏発祥の地、河内国壺井(羽曳野市)に生まれた。父頼義は館近くに氏寺として通法寺を建立、前九年の役後には石清水八幡宮より勧かんじょう請して総氏神となす壺井八幡宮を造営した。八幡宮は今も時折、参拝客が訪れるものの、通法寺は明治の廃仏毀釈で山門と鐘楼だけを残し廃寺となった。私の幼い頃はまだ児童書に源義家伝記があり、鬼神のような活躍に小さな胸を躍らせたものである。そのヒーローはいま、雑草の繁茂する境内の奥つ方、人の訪なうことも久しい小さな丘の上で静かに眠っていた。 八幡太郎とは石清水八幡宮で元服したことに因むものだが、そもそも八幡神は軍いくさの神として源氏の氏神とされた。全国に四万社ともいわれる八幡さん、総本社とされるのが大分県宇佐市に鎮座する八幡総本宮 宇佐神宮である。 八幡さんを知らぬ人はまずないが、その正体が実はよく分っていないと知る人は少ない。宇佐宮は祭神の第一に八幡大神と呼ぶ応神天皇を祀るが、比ひめ 売神と神功皇后も同じく祭神として祀っている。この三柱の神々をあわせて八幡さんのご神威は発揮されるとしているのである。

2・壺井八幡宮

2・壺井八幡宮

ここで少し歴史を紐解いてみると、八幡神は記紀の天地開かいびゃく闢に連なる神々の系譜に顔を出さない。『続日本紀』が天平九年、新羅との関係悪化をうけて「伊勢神宮・大おおみわ神神社・筑紫の住吉・八幡の二社および香か し い 椎の宮」に幣みてぐら帛を奉ったと記す。これが正史における“八幡神”の初見で唐突に護国の神として登場してくる。しかも当初、宇佐宮の祭神は八幡神と比売神のみであり、平安中期に神功皇后が加わり八幡神は応神天皇のことであるとして、いまの八幡三所の形が定まるという経緯を辿る。なぜ、八幡さんが宇佐の峰に降臨し宇佐宮に鎮座したのか、その正体も由来も説明されていない。

しかも当初、宇佐宮の祭神は八幡神と比売神のみであり、平安中期に神功皇后が加わり八幡神は応神天皇のことであるとして、いまの八幡三所の形が定まるという経緯を辿る。なぜ、八幡さんが宇佐の峰に降臨し宇佐宮に鎮座したのか、その正体も由来も説明されていない。

3・通法寺跡にある源義家公の墓

3・通法寺跡にある源義家公の墓

さてそれでは、ということになるが、ここに明治まで木坂八幡宮あるいは本宮と呼ばれていた対馬国一之宮、海神神社という古社がある。実はこの神社が八幡宮の発祥なのだという説がある。眉にべったり唾をつけたくなるような話であるが、あの新井白石先生も「八幡と申す事は対州(対馬)にあるを始はじめとなすべき。木坂八幡という宮あり」、「木坂に伝わる伝承は奇譚ではあるが信ずるに足る」(白石先生紳書)と言っているのだから紹介してみる価値はあろうというもの。 対馬には新羅親征に関連する神功皇后伝承が数多く存在する。その代表的なもののひとつが海神神社や厳いずはら原八幡宮由緒に残る八幡伝承である。書紀に対馬の和わ につ珥津から出陣との記述があるが、要は、神宮皇后は新羅親征の帰途、対馬に寄港した。出征前に宗像神から授かった振波幡・切波幡など八はちりゅう旒の幡はたと鈴を浜辺に張り巡らし、矛舞や放ほうじょうえ生会の始めとなる新羅人捕虜の釈放など凱旋の祝いを催した。そして、皇后が対馬西岸の要害を御船から巡検した際、木坂山が神霊強き山だとして山頂に八旒の旗と鈴を埋め、異国降伏の誓うけい約とした。その所縁の地に宮が建てられた故、八幡宮と称したというのである。まざまざと情景が瞼に浮かんでくるような描写である。 さらに、天保年間、対馬國総宮司職の藤とう仲なかさと郷が『対州古蹟集』の中で「欽明31年に八旒の幡の内二口を豊前宇佐宮に分けた」ことを記している。この話は受け手の宇佐宮には残されていないが、現在の由緒によれば欽明32年に八幡神が顕現し宇佐宮に鎮座したとされており、八幡さんの正体を垣間見せてくれる対馬伝承には興味は尽きないのである。

4・海神神社(木佐八幡宮)本殿

4・海神神社(木佐八幡宮)本殿

さて、八幡さんの正体がおぼろげなりに見えてきたところで、三大八幡宮のひとつである鶴岡八幡宮についても語っておこう。ここの創建者は頼朝ではない。実は頼義が前九年の役の戦捷祈願に石清水八幡宮から当地に勧請したのを嚆こ う し 矢とする。頼義の5代目にあたる頼朝が因縁の地に武家として初の幕府を開いたことに強い縁を感じるし、また、軍の神様である八幡さんの霊験あらたかなことも改めて思う。ただ、鶴岡の今日の殷い んし ん 賑にくらべ、河内源氏の総氏神を鎌倉に奪われた壷井八幡宮の人影まばらな境内を見ると、八幡さんもずいぶん贔屓をしなさる神さんやなと思うことも、花も実もある八幡太郎に幼い たいけ気な心を奮わせたわたしのまた偽らざる気持ちでもある。

5・鶴岡八幡宮

5・鶴岡八幡宮

野田博明
のだ ひろあき

昭和26年生まれ。東大卒。日本興業銀行広報部長などを経て、現在、一般社団法人全日本社寺観光連盟理事。平成27年文化庁・観光庁共管の「文化財の英語解説のあり方に関する有識者会議」、平成29年文化庁の「文化財の多言語解説等による国際発信力強化の方策に関する有識者会議」の委員。

鶴岡八幡宮にて

鶴岡八幡宮にて

2018-06-20 | Category コラム

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