【風まかせ(17)前半】瀬をはやみ岩にせかるる滝川の われても末にあはむとぞおもふ


坂出市の鼓岡に建つ鼓岡神社

坂出市の鼓岡に建つ鼓岡神社

「崇徳院」という上方落語がある。人間国宝の故・桂米朝が得意とした大ネタである。床屋で鏡を割った熊さんが“末に買わんとぞ思う”と御製を本歌取りして、月末には弁償すると大爆笑の落ちを誘うものである。しかし、実際の崇徳院のご生涯は腹を抱えて笑うどころかその真逆であった。
皇室、摂関家、源平を巻き込んだ保元の乱を引き起こし敗残の身となる院は讃岐へ配流され、鼓岡(坂出市府中町)という小高い丘に建つ木の丸御殿に軟禁される。現在、その跡地に讃岐国造の始祖・讃留霊王の古墳にもたれるようにして小さな社殿が建つ。鼓岡神社である。

崇徳天皇と書かれた扁額の架かる白峰宮

崇徳天皇と書かれた扁額の架かる白峰宮

850年前、この地には国府の壮大な建物が幾宇も連なっていた。ほんの数年前の調査であるが、石段をおりて100メートルほど歩いた所に国府庁の中核施設の遺構が発掘された。まさに甍の波が鼓岡の目と鼻の先に見えたことになる。それは軟禁された上皇が日々国府を見下ろすというより、官憲の目により常に監視されていたというのが適切である。保元の乱から配流に至る崇徳上皇の顛末や幽閉生活の様子はほぼ同時代を生きた語り手による「保元物語」に詳しいが、江戸中期の怪奇物語、「雨月物語」の“白峯”には現世に深い怨みを留めた院のあさましいまでの魂が描かれ、史実とは別の意味で身の毛もよだつ迫真性をもつ。
一心に写経した大乗経を後白河上皇に突き返された崇徳院の憤怒は一方ならず、「日本国の大魔縁となり、皇を民となし民を皇となさん」と有名な呪文を舌を喰いちぎり血書し、志度の海に投げ込んだ。その後、皇家に対する怨恨は募り、都への還幸もかなわず9年におよんだ流刑の生活の幕を閉じた。その死因は病死とも暗殺とも伝えられ、鼓岡近くに殺害されたことを標す柳田の碑が残る。その墓標のような石柱は線路脇の小さな田んぼの隅にぽつんと取り残されている。院のご遺骸は夏の盛りとて、都からの埋葬の許可を待つ間、冷たい湧水の満ちる弥蘇場の池に浸し保存された。そして、ようやく宣旨が届き5キロメートルほど北に離れた白峰山で荼毘に付されることになった。

白峰山麓に鎮座する高家神社(別名 血の宮)

白峰山麓に鎮座する高家神社(別名 血の宮)

伝説の讃留霊王が瀬戸内の怪魚に葬られた軍兵をこの聖水で蘇生させたとの話を残す弥蘇場にとどまる間、夜ごと付近の霊木に神光が輝く怪異現象が起こった。人々はその閃光が崇徳院の憤怒の意思であると怖れた。それを伝え聞いた朝廷は詔を発し、この地に御霊を鎮める社を造営した。現在の白峰宮である。創建の縁起となった神光で漆黒の闇が昼間のように明るくなったことから、別名を“明の宮”と云う。白峰山へ葬送の途上、山麓の高屋神社の石の上に殯柩を奉置したところ一天にわかにかき曇り雷鳴とともに激しい風雨が襲った。天候の回復を待ち柩を持ち上げるとその六角形の石に帝の血がこぼれていた。それから当社はおどろおどろしくも“血の宮”と呼ばれるようになった。そんな伝承が残るほどに崇徳院の怨念は口さがない庶民の口の端にのぼり、いつの間にか自然界に起こる不可解な現象までが院の祟りに関連づけられていったのだと思う。

後小松天皇のご宸筆の扁額のかかる頓証寺殿勅額門

後小松天皇のご宸筆の扁額のかかる頓証寺殿勅額門

一方、都においても後白河上皇の妃や美福門院、氏長者の地位を奪還した藤原忠通やその愛息など、崇徳院に敵対した人物やその縁者の死がつづき後白河院自身も病に伏せった。さらに延暦寺僧兵の強訴や都の大火、彗星の出現など人心を不安に陥れる禍事が多発する。朝廷はこうした災いが院の祟りであると畏怖し、それまでの讃岐院を崇徳院と改め追号した。

後半へつづく

2018-03-14 | Category コラム

関連記事

Comment





Comment