寺宝の仏像が博物館の特別展のために出座して留守の間、ふだん仏像が安置されているお寺はどのような様子になっているのだろう。ふとそんな疑問を抱いて、奈良の聖林寺を訪ねたのは、奈良国立博物館の特別展「国宝 聖林寺十一面観音〜三輪山信仰のみほとけ」(会期:2022年2月5日〜3月27日)が開幕する直前のことだった。
聖林寺は、奈良県桜井市の南部、多武峰(とうのみね)街道が走る山懐に所在する古刹で、安産・子授けの寺としても信仰が篤い。かつてフェノロサが、和辻哲郎が、そして白洲正子が歩いた山道を登ると、石垣を築いたその上にある山門からは、日本最古の神社・大神神社がご神体とする三輪山の美しい稜線を望むことができる。
しずしずと本堂に上がる。
ご本尊は、子安延命地蔵。大きなお地蔵さまだ。ふっくらと優しい笑みをたたえているようで、ほっとこころ和む。なるほど、今も安産や子授けの寺として人気があるのもわかる気がする。ちなみに現在の本堂は、江戸時代中期の建立で、お地蔵さまを据えてから、そのサイズにあわせて建てたらしい。
さて、本題である。
本堂のお地蔵さまに向かって右側に、間仕切りなくつながっている小部屋がある。窓からは明るい外光が差し込み、軒先の向こうには、つい先ほど山門から眺めた三輪山が、まるで1枚の絵のように広がっている。
ここに、明治期に十一面観音を発見したアーネスト・フェノロサが寄贈した厨子がある。国宝聖林寺十一面観音像は、この厨子に安置され、後に昭和34年に建てられた観音堂へ移された。その観音堂が老朽化のため大規模な改修工事を余儀なくされ、現在工事中となっている。特別展はこの工事期間を利用しての出座というわけだ。
フェノロサの厨子に目をやる。
するとそこに、今は奈良博のはず観音さまのお姿が…。まさかとわが目を疑う。
脳内が混乱して錯綜したまま、恐る恐る近づいてみる。まごうことなき本物の十一面観音だ。と思ったが、近づくと光の加減で次第にその正体をあらわにしてくる。それは、織物でできた掛け軸だった。
「去年6月の東京国立博物館出展の時から、こちらに掛けています。〝お身代わり〟として開眼法要もしたんですよ」と倉本明佳住職。
均整のとれた仏身、豊満な顔立ち、量感のある上半身、優婉な纏衣の美しさ、微妙な変化をみせる指先。今も、多くの人々を魅了している聖林寺十一面観音が、二次元の平面でみごとに立体的に再現されていた。ただただ驚くしかない。
聞けば、日本が誇る京都の西陣織だという。ご住職がルーペを使って織物の表面を拡大して見せてくれたが、それはまるでフランス印象派の画家スーラの点描画のよう。色彩豊かでカラフルなドット(点)で構成されている。糸と糸が交差しているドットの集積で一枚の絵がデザインされている。
ふたたび離れて眺めてみる。見る角度で光の反射が異なるため、ちがう表情を見せてくれる。いくら眺めていても飽きることがない。はたして写真でこの立体的な表現が可能だろうか。
この精巧な〝お身代わり〟像の制作者を訪ねてみることにした。