宿坊を運営しているのは、院代の菊池雄大氏。大間で生まれ育ち、海峡を挟んだ北海道の高校時代は、元メジャーリーガー田中将大投手の1年後輩として甲子園でもプレーした。東京の仏教系大学で学び、曹洞宗の大本山永平寺で修行後、東京や北海道など各地の寺院での務めを経て地元に戻った。父が切り盛りする本院とは別に、山の中で空き寺になっていた普賢院を再興して宿坊を開いた。
地元のため、寺院のために
「地元に戻るたびに、このままでいいのだろうか、と自問自答していました。大間の町も、自坊の将来も。そんな時によそで宿坊が新たに人を呼んでいることを知り、開設を決意したんです。生まれ育った寺院へ戻ることを決意したときにこの思いを住職(父)に伝えたら、ふたつ返事で賛成していただけました」
かつて大間は、下期半島の名所でもある恐山を訪れる参拝客が、ついでに立ち寄る観光地として賑わっていた時期もある。しかし、恐山を支えていた東北地方沿岸部の人たちの多くが、東日本大震災で大きなダメージを受けて恐山詣がほぼ消滅してしまった。その影響で大間も変わってしまった。そうこうするうちに過疎化が進む。
菊池院代は大学時代の卒論で、地方の寺院が生き残る条件を深く考察した。生存の条件は3つ、①瀬戸内寂聴のような人を惹き付けることのできるスター僧侶がいること、②経済的基盤となる檀家が相当数あること、③寺院存続に必要な最低限の現金収入があること。地元に戻っても、このうちの①のスター性などあるわけもないし、②の檀家も過疎地にあって10年後20年後はわからない。マグロにしても海流が変わればいなくなってしまうことも考えられる。そうなれば檀家も厳しい。ならば③の現金収入を確保する必要がある。その手段のひとつとして、さまざまな思考実験を繰り返したすえに、宿坊の運営にたどりついた。
とはいえ、突然お寺が宿泊を提供しますと言ったところで、はるばる下北半島の先端までそれを目的として人が来てくれるかは疑問だ。そこで、日本中に知られている「大間のマグロ」を前面に打ち出す戦略をとることにした。そしてその思惑は当たった。
ただの思いつきではない。地元で生まれ育った菊池さんを支えるマグロ漁師の仲間たちもいる。命がけの漁場の船上から、「いいのが揚がったぞ!漁港で待ってろ!」と連絡がくる。100Kg以上のマグロは東京方面へ出荷されるが、それより小さいマグロは地元大間に卸される。
「そもそも夕食が曹洞宗の精進料理では、量が少なくお腹がすいてしまうかもしれません。そこで朝食に精進料理を提供して、夜はマグロをいろいろなメニューで楽しんでいただくことにしました」
などといかにも宿主のようなことを言っているが、マグロをはじめ夕食に並ぶ食材の一つひとつに大間の物語がある。つながりがある。
ゲストと共に食事をしながら、そうした土地の物語やつながりを話す。ときには聞かれれば仏教のこと、そして自分のことなども気ままに話をする。宿坊を始めてから知り合った近隣の寺院で醸造している地(寺)ビールも会話を盛り上げる名脇役となっている。