豊臣秀吉が慶長3年に行った一世一代の宴「醍醐の花見」。その故事にならって行われる豊太閤花見行列が4月14日(日)に開催されます。本年は、佐川印刷株式会社代表取締役会長の木下宗昭氏が太閤・秀吉役に扮します。行列は武将、修験者らの後、福島正則、前田玄以、京極高次、義演僧正、豊臣秀頼、輿に乗った太閤秀吉、北政所、淀殿などの女房衆が続きます。金堂前特設舞台では歌会、舞、狂言、雅楽、寸劇が行われ、特別観覧席からご覧いただけます。
世界遺産・京都・醍醐寺は古くから桜の名所として知られ、「花の醍醐」とも呼ばれていました。
戦国の世を統一した豊臣秀吉は、慶長3年3月15日に1,300名の女性を招待し、名だたる大名や戦国武将たちが伏見城から醍醐寺までの道中警護をした、一世一代の豪華絢爛な花見を行いました。それは「醍醐の花見」として今でも語り継がれています。その故事にならって行われているのが、豊太閤花見行列です。
昭和35年に催された豊太閤花見行列の初代太閤役は、宝酒造(株)の当時の会長・大宮庫吉氏で、その後は現パナソニックの創業者である松下幸之助氏など名だたる経済界の方々が秀吉役に扮してきました。
今年は、佐川印刷株式会社の代表取締役会長・木下宗昭氏が太閤秀吉に扮します。
行列は、午後1時に醍醐寺三宝院の国宝・唐門が開けられて出発し、桜の馬場から仁王門を通り、醍醐寺の鎮守であり密教の守護神でもある清瀧権現に祈りを捧げ、金堂まで行列します。
その後、金堂から特設舞台で行われる歌会、舞や狂言、雅楽、寸劇などを観覧して午後3時ころ三宝院へ戻ります。
当日、金堂特設舞台の間近でご覧になれる特別観覧席(要予約申し込み)も用意しておりますので、ご希望の方はこちらからお申込みいただけます。
特別観覧席:1席3,000円
https://select-type.com/ev/?ev=JFQO0DxmG4k
日程は、
【日 時】令和5年4月14日(日) 午後1時~午後3時頃
【会 場】総本山醍醐寺(京都市伏見区醍醐東大路町22)
三宝院・唐門→伽藍・清瀧宮拝殿→金堂
【当日進行】午後1時頃 三宝院・唐門から出発、伽藍へ
午後1時30分頃 清瀧宮拝殿法楽
午後1時45分頃 金堂前観劇
午後3時頃 三宝院へ帰着
※仁王門より中は3か所共通拝観券(1,500円)が 必要となります。
【醍醐の花見とは】
豊臣秀吉は慶長3年の3月に、1,300名もの女性を招待して盛大な観桜の宴を行い、現在でも「醍醐の花見」として語り継がれています。
この豪華絢爛な醍醐の花見は、決して自分の権力を誇示するためのものではなく、人への想いに溢れたものでした。
慶長2年3月、秀吉は徳川家康らを伴って突然醍醐寺を訪れます。馬場の桜を愛でたり、上醍醐へも登ったことが記録に残されています。
この地で花見をすることを決めた秀吉は、応仁の乱以降荒れ果てていた醍醐寺の伽藍の復興と翌年花見をすることを申し出ました。
五重塔の修復を手始めに、金堂や仁王門の修理を手掛け、三宝院の庭園(自ら設計し、縄張りをしたと言われています)や表書院など多くの建物を復興し、現在の醍醐寺の姿はこの時に造られたものが多く、国宝、重要文化財になっています。
近畿一円から700本余りの桜の木を集めて参道に植えさせ、工事中には何度も何度も醍醐寺へ足を運んだことが当時の座主・義演の「義演准后日記」に記されています。
慶長3年3月15日、花見の当日、1300名の女性たちには一人3着ずつ西陣織の着物が贈られ、道中2度のお色直しが行われました。着物の代金は莫大なものとなり、不況だった京都の街は一気に活気づいたようです。
伏見城から醍醐寺の花見会場までの道中警護は、戦国大名、武将たちが担当し、花見を楽しんだ男性は、秀吉、秀頼、前田利家の3名だけと言われています。
参道の桜を楽しみながら、花見会場である上醍醐へ少し登ったところにある平坦な地・槍山へ向かいます。その道中には八つの茶屋が設けられ、それぞれの茶屋では担当した武将たちによる趣向を凝らしたもてなしが行われたそうです。この時に設けられた茶屋の一つで移築されたものが三宝院の純浄観(重文)として伝えられています。
歌会も行われ、秀吉が詠んだ3首の歌の中に「あらためて 名を替えてみん 深雪山 うづもる花も あらはれにけり」という歌があります。
深雪山、というのは実際に雪が積もっていたのではなく、山から見下ろした醍醐の桜はまるで深く雪が積もっているようだという光景を表したものです。
この後、醍醐寺では深雪山の山号を使うようになりました。
では、なぜ秀吉はこのような盛大な花見を行い、醍醐寺復興のためにここまでしてくれたのでしょうか。
花見を行う2年前、慶長伏見の大地震が起こり、伏見城の天守が崩落して多くの方が亡くなったりケガをしました。それ以来落ち込んだり、大変な苦労をしている女性たちを励ましたいという気持ちから花見を行ったとも言われています。
また秀吉は天正13年(1585)に関白に就任し、翌年朝廷から豊臣姓を賜っています。
関白という職は天皇に次ぐ役職で、公家しかなれないものですが、朝廷内では関白職をめぐる争いが起きており、当時の関白であった二条昭実から譲り受けました。
当時の醍醐寺の座主・義演は二条昭実の実弟でした。
そういう縁もあり、秀吉は、武家では絶対になることができなかった関白就任に対する恩義の返し場所として、醍醐寺を選んだのではないでしょうか。
その年の秋には紅葉狩りを楽しみにしていた秀吉ですが、思い叶わず夏にその生涯を閉じました。
醍醐の花見は、恩には恩で報いる心と、人の心を思いやり大切にする豊臣秀吉の人生の集大成であったとも言えるのではないでしょうか。
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